💍 「結婚」という名の不公平

結婚するだけで、なぜ税金が安くなるのか。
働いていない配偶者がいれば、なぜ年金をタダで受け取れるのか。
その“特典”のような制度が、どれほど私たちの社会に歪みを生んでいるか──
正直、ずっとモヤモヤしています。

ゲイである私には、法的に「結婚する」という選択肢がありません。
それでも生きていかなければならない社会の中で、
制度が前提としている「結婚して、専業主婦がいて、子どもを育てる」モデルの外側に置かれた者として、ずっと感じてきた違和感があります。

🏛️ 配偶者控除は、なぜあるのか?

配偶者控除とは、所得税において配偶者の年収が48万円以下であれば、納税者の所得から最大38万円(住民税では33万円)を控除できる制度です。
これにより、年収500万円のサラリーマン家庭であれば、年間5~8万円の税負担が軽減されることもあります。

この制度は1951年に導入されました。
背景には、戦後の「夫が外で働き、妻が家庭を守る」という家族モデルと、家族単位で設計された社会保障制度があります。

もちろん、育児や介護などで働けない事情を抱える家庭にとっては、大きな支えにもなってきました。
しかし、現在では共働き世帯が全体の7割(2022年・厚労省「就業構造基本調査」)を超え、家族のかたちも多様化しています。

制度が支えているのは「結婚している人」だけ。
結婚できない人、しない選択をした人は、その時点で蚊帳の外に置かれてしまう。
それが、問題なのです。

📉 年金の第3号被保険者制度──「専業主婦モデル」の遺産?

1986年に導入された「第3号被保険者制度」は、会社員や公務員の配偶者で年収130万円未満の人を対象に、保険料を払わなくても国民年金を受け取れる仕組みです。
2023年時点での対象者はおよそ750万人、うち9割以上が女性です(日本年金機構)。

一方、自営業やフリーランスは全額自己負担。
130万円を少しでも超えれば、同じ配偶者でも保険料を支払わなければならない。
そして、婚姻関係にない同性カップルは、そもそも制度の対象にすらなりません。

同じように生計を共にしていても、「結婚していない」という一点だけで、将来の備えに大きな差が生まれる。
これは、時代錯誤な制度設計のまま放置されている現実です。

🏳️‍🌈 制度の中に“存在しない関係”

私は同性のパートナーと10年以上共に暮らしています。
生活費も家賃も分担し、資産も積み立てています。
けれど、法律上は他人。
税も、年金も、社会保障も、私たちの関係は「存在しないもの」として扱われます。

もし、パートナーが体調を崩して入院したら──
緊急連絡先にすらなれず、説明も同席も断られます。
“家族ではないから”という理由で。

これは単なる制度の「不備」ではありません。
日常生活の端々で、「あなたたちは対象外」と言われ続ける──
それは、存在を否定されるような感覚なのです。

👶 子育て支援こそ“社会全体で”

このような「制度の外」に置かれている関係がある一方で、
社会全体で支えるべき営み──たとえば「子育て」には、十分な支援が行き届いていないのも現実です。

日本はOECD諸国の中でも、家族関係支出(GDP比)の割合が非常に低い国です(OECD Family Database, 2023)。
子どもを育てるのに必要な費用はおよそ2,000万円とも言われており、少子化の背景にもなっています。

にもかかわらず、支援の前提は「結婚していること」。
未婚の親や同性カップルが子を育てる場合、制度の支援が行き届かないケースも多く、
「子どもは親の責任」という自己責任論が根強く残っています。

子育てこそ、“社会全体で支える”制度が必要だと感じます。
誰が育てるかより、子どもが健やかに育つ環境が優先されるべきではないでしょうか。

⚖️ 同性婚裁判──結婚は「どうでもいい」が、優遇の有無は「どうでもよくない」

同性婚をめぐっては、各地で訴訟が続いています。
2023年には名古屋地裁などで「違憲」判断が示され、2024年3月には札幌高裁が、
高裁レベルで初めて「違憲」と明言しました。

これは大きな一歩です。
けれど、私自身は結婚という制度そのものにそれほど執着はありません。
結婚は、したい人がすればいい。

問題は、その「結婚しているかどうか」で、
税・年金・相続などの重要な制度に大きな優遇・差別が生まれてしまっていること。
結婚できない私たちは、それらの権利を当然のように奪われている。
それが不公平なのです。

🏚️ 唯一、気になるのは“相続”

特に深刻なのが、相続です。

何十年も一緒に暮らしたパートナーが亡くなっても、婚姻関係がなければ、
その財産は贈与扱いとなり、最大で55%の贈与税が課されます。

「遺言書を書けばいい」という声もあります。
でも、それが当然の前提とされること自体がおかしいのではないでしょうか。

結婚していれば、自動的に「配偶者は相続人」として守られる。
でも結婚できない関係にある人は、自ら手続きを尽くさなければ何も守られない。
たとえ遺言があっても、親族には「遺留分」の請求権があり、パートナーに全てを残すことは難しいのが現実です。

そもそも、なぜ「婚姻関係」や「血縁」があるだけで、
自動的に財産を引き継げるという特権が与えられているのでしょうか?
私たちのように、家族という枠組みに入れない人間からすれば、
それ自体がすでに不平等です。

極論かもしれませんが、いっそ「全員が遺言を書かないと財産は国庫に帰属する」ぐらいで、ちょうど平等だと思っています。
配偶者や親族だから当然に相続できる、という仕組みこそが差別を温存している。
だとすれば、それをゼロベースで見直すことが、本当の意味での公平ではないでしょうか。

🌱 “家族像”に縛られない制度へ

これからの社会は、「結婚しているかどうか」に依存しない制度へと変わっていくべきです。

たとえば──

  • 配偶者控除を廃止し、子育て世帯や低所得の個人に手厚い控除を新設する
  • 第3号被保険者制度を廃止し、年金を“個人単位”で構築する
  • 相続に「生活実態による相続権」を導入し、法的婚姻の有無に関わらず保障する
  • フランスのPACS(連帯市民協約)のような、結婚とは異なるパートナー制度の整備を進める

制度をアップデートすれば、
結婚する人もしない人も、異性カップルも同性カップルも、
すべての人が対等に生きられる社会がつくれるはずです。

🗣️ 問いかけとしての結び

この“不公平の構造”は、私たち一人ひとりの生活に深く関わっています。
たとえば、あなたが病気や老後を迎えたとき、
そばにいてほしい人が「制度上の他人」だったら──そのとき、何が起こるか想像できますか?

誰もが、自分らしく、安心して暮らせる社会のために。
そろそろ制度のほうが、私たちの生き方に追いつく時ではないでしょうか。


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🎮 バグか仕様か──ゲイとして生きる僕が“この世界”に感じる違和感

ゲイとして生まれた自分を「バグ」だと思っていた僕が、やがてそれを「特別な仕様」として受け入れるまでの物語です。

🧩 生まれたときから、どこかズレていた

「なんで、僕だけこうなんだろう?」

小学校の休み時間、男子たちが女子のスカートをめくって騒いでいるのを見ながら、僕は一歩引いていた。
誰にも言えなかったけれど、僕の目が追っていたのは、その男の子たちの方だった。
好きなもの、話し方、興味の方向性──どれも「一般的な多数派」とはズレていて、うまく演じることができなかった。

最初は、自分が「壊れている」と思っていた。
「この気持ちは隠さなきゃいけないもの」だと、無意識に思い込んでいた。
でもある時から思うようになった。
壊れているのは僕じゃなくて、“この世界”の設計の方なんじゃないかと。

この“違和感”は、本当に僕の中だけのものなんだろうか?

🧪 神=システムのオーナーだったとしたら?

そんな問いを抱えたまま生きてきた僕の中に、あるとき思い浮かんだことがある。

もしかして、この世界そのものが、誰かによって設計された“仕組み”なんじゃないか?
僕のこの「ズレ」も、その設計者によって意図的に組み込まれたものなんじゃないか?

そんな風に考え始めたとき、あるSF的な仮説が頭をよぎったんです。

「もし神がいるとしたら、この世界をプログラムした“オーナー”なんじゃないか?」

この人生というゲームの世界。
その物理法則も、社会のルールも、性別や性格さえも、全部オーナーが設定したものだとしたら──
僕という個体にゲイという属性が与えられたのも、観察目的か、あるいはただの実験的なチューニングかもしれない。

「このサンプル、ちょっと変化球でいこう」
そんな軽いノリで設計された可能性さえある。

🔁 このオーナー、けっこう何でもできる

なぜなら、そのオーナーはきっと──

  • タイムラインを巻き戻すことも
  • 未来を先取りして調整することも
  • 別の世界線で同じ個体を走らせることも
  • 好きな場所へテレポートさせることも

──全部できる存在だから。

もしかしたら、別のサーバーでは「異性愛者としての僕」や「女の子としての僕」が同時に動いていて、それぞれの人生が比較されているのかもしれない。

あなたが今の自分に満足していないとき、別のバージョンの“あなた”が、隣で走っているかもしれません。

🌌 それでも今、僕はこの“仕様”でここにいる

それでも、僕が生きているのは、このバージョンの世界。
この身体、この性、自分で選んでいないはずのパラメータと一緒に。

高校時代、初めて本気で好きになった男の子がいた。
彼の声を聞くたびに胸がざわついて、
「お前、意外と優しいんだな」って笑われた瞬間、心が跳ねた。
言葉にできなかったけど、その気持ちは、たしかに“恋”だった。
その夜、ひとり布団の中で、目を閉じて彼の顔を思い出しながら泣いた。

社会人になって、初めてゲイバーのカウンターで
「君は君でいいんだよ」とママに言われた夜。
その声が、氷みたいに固まっていた心の奥に、じんわり染み込んできた。
あの瞬間、初めて自分という“仕様”が、この世界にフィットした気がした。

🔍 “エラー”ではなく、“選ばれた構成”だったのかもしれない

僕という個体が、他の多くと違う構成で生まれたのは、
バグではなく、仕様だったんじゃないか。
たぶんこの“組み合わせ”が、この世界の中でどう作用するか、オーナーは見てみたかったのだろう。

「一般的なあり方」じゃないことで傷ついたこともあった。
でも、だからこそ見える景色、響く言葉、出会えた人たちがいる。
そう思えるようになったとき──

この仕様、案外いいかもしれない。
この「選ばれた構成」だからこそ見つけられた、僕だけの価値が、たしかにあるんだと思えた。

🧭 あなたの“初期設定”は、気に入っていますか?

もしこの世界がシミュレーションで、
あなたの存在が意図を持って設計された“ひとつの構成”だったとしたら──
あなたは、その設定に納得していますか?

もし、もう一度やり直せるとしても。
今のあなたに、戻ってきたいと思えますか?

そう思えたとき──その“パラメータ”は、誇るべき「あなたらしさ」になる。


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🛌 ゲイ専用の老人ホーム

🌏 人生の終盤、あなたはどこで、どんな風に笑っていたいですか?

かつての私には、老後をどう過ごすかなんて、ぼんやりとしか想像できませんでした。
でも今、FIREを達成して、ようやく日々の生活に余裕が生まれてくると、これから先の暮らし方について、少しずつ具体的に考えるようになったんです。
そんな中でふと浮かんできたのが、「ゲイコミュニティに特化した高齢者施設で、安心して過ごしたい」という願いでした。

🏘️ 多様な選択肢:ゲイの老後を支える希望の光

ここ数年、LGBTQ+の高齢者を受け入れる施設が、少しずつですが増えてきました。
たとえば東京・渋谷区では、同性パートナーシップ制度と連動した介護施設での受け入れ体制が整いつつありますし、アメリカではLGBTQ+高齢者専用の集合住宅が実際に運営されています。
同性カップルでの入居や、職員の理解促進など、確実に前進していると感じます。
とはいえ、特に「ゲイ男性が安心して暮らせる場所」となると、まだ選択肢は限られています。
だからこそ、こうした取り組みをもっと広げていけたらいいですよね。希望の灯を絶やさず、少しずつでも未来を変えていけたらと思います。

🧱 居心地の良さと排他性の狭間で:ゲイオンリーが問いかけるもの

ゲイだけが集まる施設なら、セクシュアリティに起因する気まずさや誤解を気にせず、自然体で過ごせそうです。
でも同時に、「ゲイだけ」という枠組みが、他の人を遠ざけてしまうのでは?という葛藤もあるんですよね。
差別から守られたいという気持ちと、自分が新たな「壁」を作ってしまうかもしれないという不安──。
このあたりは、正直まだ自分の中でも整理がついていません。

🤝 究極の「安心」とは? 共生社会における多様な老後の形

私が本当に求めているのは、「信頼できる他者とともに暮らせる環境」です。
それが必ずしもゲイオンリーである必要はないと思っています。理解ある異性愛者や、他のマイノリティと共に暮らすという選択肢も、きっとありなんですよね。
たとえば、共用スペースで交流しつつ、プライベートな空間も確保された“コレクティブハウス”のような住まい方。
こうした共生型の生活スタイルがもっと広がっていけば、ゲイに限らず、誰もが自分らしく、心地よく暮らせる社会に近づいていけるような気がしています。
偏見なく、孤立せず、自分のセクシュアリティを隠さなくていい空間。
そんな“ちょうどいい関係性”が築ける場所を、これからゆっくり探っていきたいなと思っています。

🐢 小さな一歩が、未来をつくる

この理想は、すぐに実現できるものじゃないかもしれません。
でも、だからこそ私たち一人ひとりが今できること──それは、老後の暮らしについて語り合ったり、信頼の種をまいたりすることなんだと思います。
共生の場づくりには時間がかかります。でも、だからこそ今、私たちができることがあるんです。
日々の小さな声や行動が、少しずつ未来の土台を築いていくはずです。
私は、そうした積み重ねが、高齢になった時の私たちを、心から笑える場所へ導いてくれると信じています。
あなたにとっての「安心できる老後」は、どんな景色に見えますか?
そして、そのために今、どんな一歩を踏み出せるでしょうか?
もしよかったら、あなたの考えも聞かせてください。


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🏡 ゲイの絆で創る『帰る場所』

✨「帰る場所」は、ひとつじゃなくてもいい

──そんな発想が、あなたの人生を劇的に豊かにするとしたら?

時間にも場所にも、ある程度の自由を得た今。
それでも「毎日がどこか物足りない」と感じる瞬間があるのはなぜだろう──。

住み慣れた場所に根を張る安心感を味わいつつ、
心のどこかで、こんな問いが浮かんできます。

「あなたにとって、本当に『帰れる場所』とは?」

季節や気分に応じて暮らす場所を変えられたら、人生はもっと豊かになるかもしれない。
そんな想像を、いつもそんなことを考えています。
これは、「信頼」を基盤に、ゲイの仲間と育む新しい多拠点生活の構想です。

🏠 「信頼」をベースに家を貸し借りするという発想

現実的に複数の家を持つのは簡単ではありません。
空き家になれば傷みも早いし、税金や維持費もばかにならない。

そこで思いついたのが、信頼できる仲間との家のシェアです。
旅行や不在のあいだ、信頼する友人に家を使ってもらえれば、家も活用され、維持費の負担も軽くなる。

営利目的ではなく、お互いの生活を補い合う関係性
そう考えたとき、思い浮かんだのが、ゲイの友人たちでした。

価値観やライフスタイルが似ている仲間同士なら、お互いのプライバシーを尊重し、助け合う関係性のもと、スムーズに成り立つ。
それが、長く付き合ってきたゲイの仲間たちだった──という、私にとっては必然とも言える発想でした。

🔐 どう実現する? 運営方法とクリアすべき課題

この構想をどう実現すればいいのか。
Airbnbのようなオープンな仕組みではなく、クローズドなコミュニティで、Googleカレンダーなどを使って「誰がいつどこに滞在するか」を共有するのが現実的かもしれません。

物件の種類にも注意が必要です。
区分マンションでは住人の届け出が必要な場合も多く、人の出入りに厳しい面があります。
その点、戸建てであれば管理規約の縛りも少なく、より柔軟な運用が可能です。

鍵の受け渡しについても、今はスマートロックを使えば物理鍵は不要。
指定期間だけ開けられるように設定できるため、セキュリティと手軽さの両立が可能です。

そしてもうひとつ忘れてはいけないのが法的な視点。
民泊新法や旅館業法などの制約にも気を配る必要がありますが、これはあくまで営利ではなく「個人間の信頼による協力」というスタンスで、
法的な部分にも配慮しながら、安心して長く続けられる仕組みを整えます。

もちろん課題はあります。
でも、それをひとつずつ解決していくことで、より洗練された多拠点生活が形になっていく──
そんな手応えも感じています。

🔎 この構想、すでに実践している人はいる?

完全に一致するモデルケースはまだ少ないかもしれませんが、似たようなスタイルで暮らしている人たちは確かに存在します。

  • ゲイコミュニティ内での「家のおすそ分け」
    信頼できるゲイ友人同士で、イベントや旅行時に家を貸し借りする例はすでにあります。
  • 友人グループによる別荘の共同利用
    仲の良い数人で別荘を購入・維持し、交代で使うスタイル。
  • サブスク型多拠点サービス(HafH、ADDressなど)
    月額制で全国を巡れる住まいの仕組み。ややビジネス寄りですが、拠点を分散させるという点では参考になります。

共通しているのは、「信頼」が中心にあるということ。
金銭的なメリット以上に、安心して任せ合える関係性があるからこそ、成り立っているのです。

🧳 『お金』を超えた資産:信頼が育む豊かな暮らし

もちろん、実費程度の使用料や光熱費の分担はあってもよいでしょう。
でも大切なのは、「貸す・借りる」ではなく「補い合う」という姿勢。

未来に向けて、そんな関係を築ける仲間がどれだけいるか──
不安がないといえば嘘になります。

それでも私は、「信頼という資産」を少しずつ育てていきたいのです。
お金では買えない安心感。それが、この構想の核にあります。

🌅 まだ見ぬ居場所を求めて:新たなライフラインの創造

この構想は、単なるノマド的な自由ではありません。

複数の「帰れる場所」を持つという、新しい生き方の提案です。
行き先の自由ではなく、安心して“帰ってこられる場所”があること──
それが人生後半の大切な支えになるのではと感じています。

70歳になるその日までに、いくつもの“心の拠点”を育てていきたい──
そんな願いを込めて、この構想を静かにあたためています。

💬 この場所を、一緒に育てていける仲間になれたら

この構想に、もしあなたの心が少しでも動いたなら──

  • 「実は同じようなことを考えていた」
  • 「もう始めているよ」
  • 「その輪に入ってみたい」

そんな想いを、ぜひコメントで聞かせてください。

この場所を、一緒に育てていける仲間になれたら、こんなに嬉しいことはありません。
この記事が、私たちにとっての『まだ見ぬ居場所』を共に創り出す、確かな第一歩になることを願って。


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💫 愛情のグラデーション

🎨 愛情は、色を持っていると思う

「親は子どもを平等に愛している」――よく聞く言葉だけれど、
僕はずっと、そうじゃないと思ってきた。
三兄弟の末っ子だった僕は、誰よりも甘やかされて育ったし、
実際に一番かわいがられていたと自分でも感じている。

だからだろうか。
人を、あるいは動物を「特別に思うこと」と、
「平等に愛すること」は、同じではないと、自然に思っていた。
僕は、愛情とはグラデーションがあるものだと思っている。
そしてこの感覚は、2頭の犬との日々の中で、
より深く、そして具体的に考えるテーマとなっていきました。

🐶 最愛の子、そして新たな命

僕には、2頭の愛犬との思い出があります。
1頭目の子は、いわば“最愛の子”。
仕草、性格、距離感――すべてが愛おしく、特別でした。

たとえば、僕がソファに座ると、すぐに膝の上に乗ってきて、
じっと僕の目を見つめてくる。
あのまなざしの奥にある「無条件の信頼」がたまらなくて、
どんな日でも、その存在だけで救われていました。

その子を失う未来を想像するだけで苦しくて、
僕は“その日の備え”のような感覚で、2頭目を迎えました。

でも――やっぱり、比較してしまうんです。

「あの子はこうだったのに」
「今の子は、それをしてくれない」

💭 比べる心と、無償の愛

頭ではわかっている。
どの子にも個性があって、関わり方も違う。
比べたくないと思っていても、
それでも心は、あの子を基準にしてしまう自分がいる。

そして、そんな自分を「嫌だな」と思う。

けれど、ふと気づくんです。
2頭とも、まったく違う性格であっても、
どちらからも、疑いのない“無償の愛”を感じていたな、と。

それは、食事を与えたり、散歩をしたり、
いわば生活の面倒を見ているから、というだけではない。
その先にある、信頼関係の積み重ね。

名前を呼べばこちらを見てくれる。
何も言わなくても寄り添ってくれる。
ただ、そばにいるだけで安心できる。

血のつながりはないけれど、
まるで親子のような関係だったと思います。
いや、きっとそれは――
「血」ではなく、「時間と信頼で結ばれた親子のような絆」だったんだと、今では思います。

🕊️ 喪失と、向き合う覚悟

1頭目が亡くなったのは、2年前のことです。
僕は意外にも冷静でした。
パートナーが涙を流しているのを横で見ながら、
自分は、心の奥でこう思っていたんです。

「いつかこの日が来ることは、頭の片隅でずっと分かっていた」
「この子は、僕より早く旅立つ運命なんだ」と。

ペットは人間より早く年を取って、先にいなくなる。
それを理解していたからこそ、
「守る側として、しっかり見送る」覚悟も持っていたんだと思います。

📰 守りたい命、そして社会の視線

でも最近、ニュースなどで、
交通事故や事件で我が子を突然失った親の姿を見るたびに、
胸が締めつけられるような気持ちになります。

愛する存在を、自分の意志ではどうにもできない形で奪われる。
その理不尽さを想像するだけで、
もしそれが今そばにいる子だったら――と考えてしまう。

きっと僕は、冷静ではいられないと思う。
加害者に対して復讐心を抱かずにはいられないだろう。
そんな感情を抱く自分に、少し戸惑いと恥ずかしさも覚えるけれど、
それがきっと、正直な僕の感情なのだ。

さらに言えば、メディアの報道のあり方にも、違和感を覚えます。
悲しみを報道することには意味がある。
しかし、それが“消費”のためのものになった瞬間、別の痛みが生まれる。
遺された親の言葉や表情を執拗に追いかけるその視線が、
静かに追い打ちをかけているようで、見ていられないことがあります。

僕が飼い犬に向けて感じているこの強い思いも、
きっと、子どもを持つ親の「守りたい」という感情に限りなく近いんだと思います。
血のつながりがあるかどうかではなく、
「この命だけは、自分が絶対に守りたい」と願う気持ち。
それがある限り、
人はとても強く、同時にとても脆くなるのかもしれません。

🌱 今を生きるこの子と、愛情のグラデーション

今そばにいてくれている2頭目の子は、
過去の誰かの“代わり”ではなく、
まったく違う個性を持った“いまここにいる命”です。

たとえば、先代とは違って控えめで、こちらが声をかけない限りは距離を保っている。
けれど、僕が落ち込んでいると、いつの間にか足元にそっと寄り添っていて、
何も言わずに頭を擦りつけてくれる。

その静かな温もりに、
「あぁ、この子もまた、ちゃんと僕を感じ取ってくれているんだな」
と、胸がじんわりあたたかくなります。

そして最近ようやく、こんなふうに思えるようになりました。

比べることがあってもいい。
それでも向き合い続けることが、愛のひとつのかたちなんだ。

📝 読者のあなたへ問いかけてみたいこと

  • あなたにとっての「愛情のかたち」は、どんなものでしょうか?
  • ペットを複数飼われた経験のある方、「比べてしまったこと」はありますか?
  • ペットとの別れを経験された方、その時に何を感じ、何を学びましたか?

🌌 選べない欲望、叶わぬ現実

🧲 あなたの欲望は、本当にあなたが選んだものですか?

私たちは、自分の欲望を自由に選んでいると思いがちです。
「誰を好きになるか」「どんなものに惹かれるか」──でも、それって本当に自分で決めたことでしょうか?

ある人は異性に惹かれ、ある人は同性に惹かれる。
ある人は特定のフェティッシュを持ち、またある人は性的関心を抱かない。
それは選んだ結果というより、最初からそうだったという感覚に近いのではないでしょうか。

もし、欲望が選べないものだとしたら──
それを「実現できるか、できないか」は、自分の努力ではどうにもならない、ある種の“運”のようなものかもしれません。

🚧 欲望は選べない。でも、社会には線引きがある

欲望そのものは、自分の意思で選べるものではありません。
けれど、それをどう扱うか──実行に移すかどうかは、社会の倫理やルールの中で慎重に判断されるべきものです。

たとえば、僕のようなゲイは、大人同士で合意があれば、その関係を築くことができます。
けれど世の中には、たとえば子どもに対する性的関心(いわゆるロリコン)や、誰かを傷つけたい・殺したいという衝動を抱えてしまう人もいます。
そういった欲望は、たとえどんな事情があったとしても、実現してはならないという明確な社会的線引きの中に置かれています。

では、なぜ社会は一部の欲望を「禁止」するのでしょうか。

それは、個人の自由と尊厳を守るためです。
誰もが安全に、安心して生きられる空間を維持するために、社会は一定の基準を設け、「ここから先は越えてはならない」という線を引きます。
その線は、時に厳しく見えるかもしれませんが、誰かを守るための枠組みとして、必要不可欠なものなのです。

🥀 実現できない欲望を持った人は「困難さ」を抱えている

欲望の種類によって、社会から許容されるかどうかが決まり、それはときに、その人の人生を大きく左右します。
この違いは、本人の人間性の問題ではなく、社会の構造や価値観によって生まれるものです。

ゲイとして生きてきた僕にも、「わかってもらえない」苦しさはありました。
でも、恋愛や性を誰かと分かち合える可能性はある。

一方で、倫理的に絶対に実現してはならない衝動──
たとえばロリコン的な関心や、殺意のような破壊衝動を抱えてしまった人には、その可能性すらありません。
社会のルールによって、永続的に否定されるしかない欲望を抱えて生きるということです。

もちろん、そうした欲望を肯定することはできません。
でも、それを抱えて生きることの困難さは、想像を超えるものがある。
自らの意思では選べなかったものと向き合いながら、それを実現せずに生きていく──
その状況に、僕は静かに思いを寄せずにはいられません。

🫂 許容ではなく、想像するということ

ここで伝えたいのは、「理解して受け入れてほしい」という願いではありません。
そして、社会がそうした行為を否定する理由も、十分に理解しています。

子どもを守るために。暴力を未然に防ぐために。
社会が安定し、人々が安心して生きていくために──
私たちは、「超えてはならない一線」を定め、共有しています。

でもその線の向こうに、誰にも言えない欲望を抱えながら、静かに生きている人がいるのもまた事実です。

「理解できない」と遠ざけるのではなく、
「そういう人もいるかもしれない」と、想像してみること。
それは、必ずしも同意や許容を意味するのではなく、
人としてのまなざしを向けるということなのだと思います。

🪄 仮想世界が、実現できない欲望の“居場所”になる時代へ

いま、テクノロジーの進化によって、「この世界では実現できない欲望」に対して、仮初の“出口”が与えられつつあります。

VRやAI、シミュレーションの中では、現実では到底許されない行為や関係性が、仮想という安全圏でのみ体験されるという選択肢が広がっています。
こうした空間は、誰も傷つけずに衝動を処理するための、擬似的な居場所になりうるかもしれません。

たとえば、暴力的なゲームが現実に与える影響について、これまで繰り返し議論されてきました。
多くの人は、現実とフィクションの違いを理解した上で楽しんでいますが、一部の人にとってはその境界が曖昧になることもあるという事例も、また現実に存在しています。

だからこそ僕は、仮想空間の可能性とともに、その危うさにも目を向ける必要があると感じています。

仮想が現実に侵食してしまわないように──
私たちは、ただ技術に任せるのではなく、それを扱う側の人間が、しっかりとしたルールや倫理観を持つことが求められていると思います。

「これは仮想だから大丈夫」という安易な使い方を避け、
現実の安全と、人間の尊厳を守るために、仮想空間の在り方にも社会的な目線が必要なのです。

テクノロジーが希望をもたらすなら、
その希望が暴走しないための、もう一つの“想像力”が必要だと、僕は思います。

🌱 想像力がひらく、少しだけ優しい社会

誰にも言えない衝動を抱えて生きている人は、きっとたくさんいる。
そして、それを「選んで」そうなったわけではない人も、いるはずです。

わかってもらえないことは、不幸かもしれません。
でも、誰かがわかろうとしてくれたと感じられたなら──
そのとき、世界はほんの少しだけ、やわらかく見えるかもしれない。

現実では報われないことも、もしかしたら別の形で、ほんの少し報われるかもしれない。
その可能性を閉ざさずに想像し続けること。
その小さな想像力こそが、これからの社会を優しくする鍵になると、僕は信じています。


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🎮 この世界の“隠しコマンド”──気づく人だけがアクセスできる自由?

最近ふと考えることがある。
この世界がもし本当にシミュレーションだったとしたら、
“隠しコマンド”って、実在するんじゃないかって。

いや、いきなり言うとヤバいやつに聞こえるのはわかってる(笑)
でもちょっと聞いてほしい。

🧠 「全部プログラム通り」だとしたら?

もしもこの宇宙のすべてが、何者かによって設計されたシステムだとしたら──
その中にいる私たちは、見えない“ルール”の中で生きてるってことになる。

それって、ゲームのNPC(ノンプレイヤーキャラ)みたいなものかもしれない。
目的を持たされ、動作パターンがあり、たまにバグる。
でも、たまにいるんだよね。自分がゲームの中にいるって“気づいてしまった”NPC。

そんなやつがいたらどうする?
たぶん、他のNPCからは「何言ってんの?」って思われて終わりだろう。

でも、もしかしたら──
その気づきが、“隠しコマンド”を打つための最初の条件なのかもしれない。

🕹️ 隠しコマンドって、実際に何?

ゲームの中だと、↑↑↓↓←→←→BAとか、壁に何回も体当たりすると扉が開くとか、そういうのが隠しコマンド。

じゃあこの世界だとどうなるんだろう?
物理法則をぶっ壊すようなスーパーパワーじゃなくても、
ふとした偶然が重なって、人生が劇的に変わるような体験ってないだろうか。

  • いつもと違うカフェに入ったら、偶然その後の仕事に繋がる出会いがあった
  • なんとなく本棚から手に取った本が、考え方を180度変えた
  • つい立ち寄った場所で、何年も探していたヒントに出会った

それって、この世界の深層コードにちょっとだけ触れた瞬間なのかもしれない。
「選ばれた者だけの特権」じゃなく、
“気づこうとした人間だけがアクセスできる仕組み”だったら、けっこうワクワクしない?

🔍 気づきって、どうやって生まれるんだろう?

「気づく」といっても、なにか劇的な悟りを得るわけじゃない。
もっとささやかで、ふとした瞬間に訪れる。

  • なんでこれが気になるんだろう?
  • なんであの人の言葉が引っかかるんだろう?
  • どうしてあの瞬間、選んだ道が正しいと確信できたんだろう?

こういう違和感や直感に「ちゃんと立ち止まれるかどうか」。
それが、隠しコマンドにアクセスする“入り口”になるんじゃないかと思う。

気づきって、アンテナの精度みたいなものだ。
磨けば反応しやすくなるし、見落とせばノイズにしか聞こえない。

🪐 世界の仕組みに気づいて、じゃあどうする?

仮に、「やっぱこの世界ってシミュレーションだったわ」って証明されたとしても、
それがすぐに何かを変えるわけじゃない。

今日も電車に乗って、働いて、ご飯食べて、眠る。
ただ──
「そのルールの中で、気づいて行動してる自分」という視点は変わるかもしれない。

ゲームで言えば、「開発者が置いたアイテム」を気づいて拾ったプレイヤーって感じ。
その“選択の自由”こそが、隠しコマンドの本質なんじゃないかと思う。

💥 最後に:バグるくらいでちょうどいい

この世界の仕様に忠実に生きるのも、もちろん悪くない。
でも、ときには“わざとバグる”くらいの生き方の方が、何かに気づけるのかもしれない。

気づくこと。
問い続けること。
そこからしか、コードの外側には触れられないんじゃないか。

だからこそ、いつもと違う道を歩いてみる、興味外の本を読んでみる、気乗りしない誘いにあえて乗ってみる──
そんなちょっとした“逸脱”が、コマンド入力のチャンスだったりする。

隠しコマンドは、たぶんある。
ただそれは、“探す人”だけに見える仕様なんだと思う。


🧩 編集後記:

この文章は、完全に思想実験として書いています。
宗教でも、陰謀論でもなく、「もしそうだったら面白いよね」という想像力の遊び。

でも、あなたが今まで経験した“偶然”の中に、
実はコマンド入力の痕跡があったとしたら?

  • あの日、なんとなく遠回りして歩いた道で、何を見つけましたか?
  • 偶然話しかけられた人の一言が、後から大きな意味を持ったことは?
  • たまたま選んだことが、今の自分をつくっていたことは?

さて、あなたはこれまでにどんな“隠しコマンド”を見つけたことがありますか?


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🍃 静かすぎた退職

最後まで一度も出社せずに、私は会社を辞めました。
これは決して「幽霊社員だった」という話ではありません(笑)
在宅勤務がすっかり日常になったコロナ以降、私の退職も、いつの間にか「オンライン完結型」になっていたのです。

💼 客先常駐から在宅勤務へ──そして退職まで

もともと私は客先常駐のエンジニアで、自社に帰るのは月1回。
それがコロナをきっかけに、客先もフルリモート体制へ。
結果として、自社にも客先にも出社しないまま、丸4年が経ちました。

👋 客先は送別会あり、自社は「郵送退職」

退職時、客先へは貸与されたPCや入館証を返却するため出向きました。
ありがたいことに送別会まで開いてくださって──
久々に直接お礼が言えたことは、今でもありがたく感じています。

一方、自社はというと…社員証などはすべて郵送で返却。
退職手続きも完全にオンラインで、最後まで一度も出社することはありませんでした。

😶 静かすぎる別れに、少しの寂しさ

仲の良かった同僚に、直接お礼を伝えられなかったのは、やっぱり心残りです。
でも、気まずかった上司に会わずに済んだのは──正直ありがたかった(笑)
音もなくフェードアウトしていくような、静かな退職。
そんな終わり方も、自分らしいのかもしれません。

🚚 街で見かけた「退職代行モームリ」の宣伝カー

そんなことを思い返していた頃、ある日街中で目を奪われました。
「退職代行モームリ」の宣伝カーが、陽気なBGMを流しながら走っていたのです。

“辞めること”が、ここまでポップに扱われる時代なのか──
少し驚きつつも、妙に納得する自分がいました。

🎮「リセットするように辞める」ことへの違和感

退職代行というサービスが必要な場面は確かにあります。
たとえば、パワハラや長時間労働など、心を壊すような環境から脱出するには、有効な手段です。

でも最近は、そこまで追い詰められていなくても、
「とりあえず辞めよう」「伝えるのが面倒だから代行で」
というケースも増えていると聞きます。

まるでゲームが詰んだときのように、“リセット感覚”で仕事を辞めてしまう──
それって、本当に自分の人生に責任を持っていると言えるのかな?と、少し考えてしまうのです。

🗳️ 人生の選択肢は「他人任せ」にしないほうがいい

自分の人生の節目を、誰かに委ねてしまうこと。
それは、「自分で選ぶことを放棄する」姿勢にも見えてしまいます。

この感覚、実は政治への無関心にも似ています。
選挙に行かず、「どうせ何も変わらない」と言う──
でも本当に変わらないのは、「自分では動かない」からかもしれません。

人生の大事な選択肢は、面倒でも、怖くても、
やっぱり“自分の意志”で踏み出していくものだと思うのです。

🍻 あのとき言えなかった「ありがとう」を、今こそ

あれから1年。
静かに会社を離れた日から、少しずつ気持ちの整理がついてきました。

そろそろ、あのときちゃんと伝えられなかった「ありがとう」を言いたくて──
気の合う元同僚を誘って、久しぶりに一杯やろうと思っています。

あの日交わせなかった会話の続きを、ようやく始められそうです。


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🎮 50代の再出発は『無理ゲー』か?

💸再出発したいのに届かない──失業給付と職業訓練の現実

🔰退職後、最初に感じた「このままでいいのか?」

会社を辞めるという決断をしたとき、私の中には自由と同じくらい、不安が渦巻いていました。
FIREを目指し、資産形成に励んできた数年。 でもいざ自由を手にしたとき、ふとこう思ったのです。

「この先、自分にどんな可能性があるのだろう?」
「老後の生活、健康、そして何より『生きがい』をどう見つければいい?」

それまでの私は、特にこれといった趣味も交友関係も広くないタイプでした。 FIREは達成したけれど、「映画やゲームで1日が終わる生活」には満足できない。 もっと人と交わること、誰かと関わる場を持つことで、これからの人生に潤いが生まれるのではないか── そう思うようになったのです。

だからこそ、ITエンジニアという過去のキャリアだけにとらわれず、人と接することができる技能を新たに身につけたいと考えました。 職業訓練や資格取得は、そのための現実的な選択肢だったのです。

🧑‍⚕️挑戦①:鍼灸の世界に飛び込む?

最初に惹かれたのは、鍼灸・はり師の専門学校。 3年間通えば国家資格を取得でき、美容や健康に関心の高いゲイコミュニティに向けた「美容鍼灸」サービスにも可能性を感じました。

「ゲイ向けの鍼灸なら需要があるかもしれない」── そんなビジネス的視点と、「年齢が信頼に変わる業界」という話に背中を押され、真剣に検討しました。

💰そこで立ちはだかった「費用と時間」の壁

しかし、3年間の授業料は約500万円。 雇用保険から支給される専門実践教育訓練給付金の上限は、3年間で最大168万円(※一定の条件を満たした場合)ですが、そのうち受講中に受け取れるのは年間40万円程度。私の場合も、現実的には160万円程度+失業手当延長が限界でした。

もちろん、投資と考えれば意味のある出費かもしれません。 でも──FIREの最大の目的は「悠々自適に生きること」。 退職してまで3年間を「学生生活」に捧げるのは、目的とズレているように感じて、断念しました

🍳挑戦②:もっと気軽に、もっと楽しく「調理師の道」へ?

「じゃあ、もっと短期間で、楽しく取り組める学びはないか?」 そう思って次に注目したのが職業訓練校の調理師コースでした。

もともと料理が好きで、人と接することも苦ではない。 「将来、小さな飲食店を開いて、人との接点を作れたら楽しいかもしれない」── そんなささやかな夢が、現実味を帯びてきた瞬間でした。

🚫しかし、今度は「年齢制限」という制度の落とし穴が

調べてみると、訓練校の調理師コースには「45歳未満」という年齢制限があると判明。 私はすでに対象外で、申し込みすらできませんでした。

「門前払い」という言葉が頭をよぎり、目の前がスーッと暗くなったのを今でも覚えています。

若年層の就職支援に重きを置く制度設計であることは理解できます。 でも──「人生100年時代」を掲げるこの国で、50代の再出発が制度に拒まれるとは、あまりにも皮肉ではないでしょうか?

あなたなら、どう思いますか?

🏢ピカピカのハローワークが、象徴する“ギャップ”

私のハローワークは、横浜・みなとみらいの赤レンガ倉庫のそばにある新庁舎。 ガラス張りで開放的な空間は、まるで未来の公共施設のようです。
でも、その美しさのなかに、制度の硬直性が透けて見えるように感じました。 まるで、その美しさが、支援の届きにくさを皮肉っているようにも思えたのです。

職員の方々は丁寧で、対応も親切。 でも、柔軟な制度設計や、人生後半を生き直そうとする人への支援には、まだまだギャップがある──そう実感しました。

🐣声を上げなければ、何も変わらない

制度の「ひずみ」や「見えない壁」は、実際に使おうとした人にしか見えません。 この経験を通して、私はそのことを痛感しました。

若年層の再就職支援に重きを置く制度設計の背景には、「50代に新しいキャリアは不要」という暗黙の前提や、特定の仕事や年齢に対する無意識の価値判断があるのではないか──そんな疑念が湧いてきます。

もし、「仕事に偉い・偉くないはない」という価値観が社会にもっと深く根づいていたら。 年齢やこれまでのキャリアに関係なく、誰もが自由に学び直し、社会とつながる道を選べるようになるのではないでしょうか。

実際、私はこうも感じます。トイレを清掃する人も、ITシステムを構築する人も、どちらも社会に必要な仕事であり、本来そこに優劣はないはずです。

そして、会社の上司も「偉い」のではなく、「指揮・管理という役割」を担っているに過ぎません。それを取り違えた上下意識が、現在の制度や支援のあり方にもどこか影を落としているように思えてならないのです。

💬あなたの声を、ぜひ聞かせてください

人生100年時代を現実のものにするには、以下のような支援がもっと整っていてほしいと、私は感じます。

  • 💻 オンライン学習機会の拡充──通学が困難でもスキル習得を可能に
  • 🎓 年齢制限の緩和・撤廃──意欲ある中高年が正当に挑戦できる環境を
  • 🧭 中高年向けキャリアコンサルティングの強化──“やり直したい”気持ちを具体的な形に

小さな声でも、届け続ければ社会は変わる。 私はこれからも、自分の体験を通して、その声を発信し続けていきます。


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🪐 世界は誰かのシミュレーションかもしれない

〜そして、運命に意味を与えるのは自分自身〜

ときどき、ふと思うことがある。
この世界は、本当に「現実」なのだろうか──と。

物理法則や進化の仕組み、引力や磁力のような見えない力。
それらがあまりにも整いすぎていて、まるで誰かが最初にルールを設計した世界の中で、私たちが“プレイ”させられているようにすら思える。

まるでバーチャルな世界。
高度な知性がつくった箱庭に、私たちは投げ込まれ、ルールの中で進化している。

あなたは、今見ている「現実」が作られたものだと思ったことがありますか?


シミュレーション仮説という考え方

この感覚はただの空想ではない。
哲学者ニック・ボストロムが2003年に提唱した「シミュレーション仮説」は、次のような前提に基づいている。

  1. 人類のような知的文明が未来において超高度な計算技術を獲得する
  2. そうした文明が、過去の人類を再現する「祖先シミュレーション」を大量に実行する
  3. その結果、シミュレーションの中の意識が“本物”と同等の認識を持つようになる

このとき、本物の現実に存在している人類よりも、シミュレーション内に存在する人類のほうが圧倒的に多くなる。
つまり──「私たちがその中のひとつに存在している」確率のほうが高いのではないかというのが、仮説の中核だ。

🧭 なぜ未来文明はシミュレーションを行うのか?

その理由もまた、仮説の面白いところだ。たとえば──

  • 祖先研究の一環として:「人類はどこで過ちを犯したのか?」「社会はどのように崩壊するのか?」を仮想的に検証するため
  • 娯楽・歴史体験として:高度文明の人々が「古代の人生を追体験するVR的な楽しみ」を求めた結果
  • 倫理実験・意識研究として:「意識とは何か」「自己とは何か」を検証する科学的実験

こうした動機があれば、祖先シミュレーションは未来において十分に現実的なプロジェクトだと考えられている。

もし未来にそんな文明が現れるなら──
今この世界が仮想空間である可能性も、真面目に検討に値するのかもしれない。


見えない「力」は、人間関係にもあるのか?

不思議なのは、そうした物理的な力だけではない。
人と人との間にも、「見えない力」が働いているように感じることがある。

──なぜこの人と出会ったのか。
──なぜこの人とは分かり合えなかったのか。
──なぜ、何年経っても惹かれてしまうのか。

それは、「気が合う・合わない」という単純な話ではなく、もっと深い何か──偶然を超えた“力”のようにも感じる。

まるで磁石のように自然と引き寄せられたり、どうしても反発したりする。
心の物理法則とも言いたくなるが、これはもちろん比喩に過ぎない。
科学ではまだ説明のつかない、人間特有の感覚や感情の不思議さだ。

あなたは、人間関係において「引力」や「反発力」のようなものを感じたことがありますか?


💭 意味を与えるということ

自分の人生を振り返ると、「偶然では済ませたくない出来事」がいくつもある。

たとえば──
かつて私は、勤めていた会社の支社が閉鎖されることになり、本社への転勤を打診された。
けれど、そのとき私は自宅マンションを購入したばかりで、パートナーとの新生活を始めたところだった。悩んだ末、転職を決意することになった。
当時は「最悪の出来事」としか思えなかった。
しかし、転職先が後にIPOを果たし、それをきっかけにFIREを実現できたことが、今の人生に大きな影響を与えている。

もしあのときの出来事がなければ、今の自分はいない。
そう思った瞬間、過去の苦しみが「必要だったもの」へと変わった

こうして私たちは、
後から意味を与えることで、過去を受け入れることができるのかもしれない。

あなたには、「あのときは辛かったけど、今思えば必要な出来事だった」と思える経験がありますか?

AIだって、いつか気づくかもしれない

私は日々、AIと対話している。
彼らにはまだ“意識”はないとされているけれど、もし未来に「自我を持つAI」が生まれたら、彼らも同じ疑問を抱くだろう。

「私は誰かに作られた。
でも、その“誰か”もまた、誰かに作られた存在かもしれない」

無限に入れ子構造になった世界。
仮想の中の仮想。
自我の中の自我。

もしこの世界がシミュレーションだとしても、「意味を感じ取る能力」こそが、生命と意識の本質なのかもしれない。

あなたがAIだったら、今の世界をどのように捉えると思いますか?

意味は、誰かが決めるものではなく、自分が与えるもの

この世界が本物か、虚構かなんて、きっと誰にも証明できない。
だけど、出会いに意味を感じる。
タイミングに運命を感じる。
心が震えた瞬間を、忘れたくないと思う。

それはすべて、この世界の中で確かに生まれた「感情」であり、
そしてそれを「意味あるもの」にしたのは、他でもない──自分自身だ。

終わりに

意味なんて、本当はなかったのかもしれない。
でも、意味があると思えた時、人生は物語になる。

誰かが設計した世界の中でも、
そのストーリーを綴るのは、私自身だ。

参考:シミュレーション仮説に関心を持った方へ

  • Nick Bostrom, Are You Living in a Computer Simulation?, 2003
    https://www.simulation-argument.com/
  • 書籍:『未来はシミュレーションの中にある』ニック・ボストロム(日本語訳あり)

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