🎮 バグか仕様か──ゲイとして生きる僕が“この世界”に感じる違和感

ゲイとして生まれた自分を「バグ」だと思っていた僕が、やがてそれを「特別な仕様」として受け入れるまでの物語です。

🧩 生まれたときから、どこかズレていた

「なんで、僕だけこうなんだろう?」

小学校の休み時間、男子たちが女子のスカートをめくって騒いでいるのを見ながら、僕は一歩引いていた。
誰にも言えなかったけれど、僕の目が追っていたのは、その男の子たちの方だった。
好きなもの、話し方、興味の方向性──どれも「一般的な多数派」とはズレていて、うまく演じることができなかった。

最初は、自分が「壊れている」と思っていた。
「この気持ちは隠さなきゃいけないもの」だと、無意識に思い込んでいた。
でもある時から思うようになった。
壊れているのは僕じゃなくて、“この世界”の設計の方なんじゃないかと。

この“違和感”は、本当に僕の中だけのものなんだろうか?

🧪 神=システムのオーナーだったとしたら?

そんな問いを抱えたまま生きてきた僕の中に、あるとき思い浮かんだことがある。

もしかして、この世界そのものが、誰かによって設計された“仕組み”なんじゃないか?
僕のこの「ズレ」も、その設計者によって意図的に組み込まれたものなんじゃないか?

そんな風に考え始めたとき、あるSF的な仮説が頭をよぎったんです。

「もし神がいるとしたら、この世界をプログラムした“オーナー”なんじゃないか?」

この人生というゲームの世界。
その物理法則も、社会のルールも、性別や性格さえも、全部オーナーが設定したものだとしたら──
僕という個体にゲイという属性が与えられたのも、観察目的か、あるいはただの実験的なチューニングかもしれない。

「このサンプル、ちょっと変化球でいこう」
そんな軽いノリで設計された可能性さえある。

🔁 このオーナー、けっこう何でもできる

なぜなら、そのオーナーはきっと──

  • タイムラインを巻き戻すことも
  • 未来を先取りして調整することも
  • 別の世界線で同じ個体を走らせることも
  • 好きな場所へテレポートさせることも

──全部できる存在だから。

もしかしたら、別のサーバーでは「異性愛者としての僕」や「女の子としての僕」が同時に動いていて、それぞれの人生が比較されているのかもしれない。

あなたが今の自分に満足していないとき、別のバージョンの“あなた”が、隣で走っているかもしれません。

🌌 それでも今、僕はこの“仕様”でここにいる

それでも、僕が生きているのは、このバージョンの世界。
この身体、この性、自分で選んでいないはずのパラメータと一緒に。

高校時代、初めて本気で好きになった男の子がいた。
彼の声を聞くたびに胸がざわついて、
「お前、意外と優しいんだな」って笑われた瞬間、心が跳ねた。
言葉にできなかったけど、その気持ちは、たしかに“恋”だった。
その夜、ひとり布団の中で、目を閉じて彼の顔を思い出しながら泣いた。

社会人になって、初めてゲイバーのカウンターで
「君は君でいいんだよ」とママに言われた夜。
その声が、氷みたいに固まっていた心の奥に、じんわり染み込んできた。
あの瞬間、初めて自分という“仕様”が、この世界にフィットした気がした。

🔍 “エラー”ではなく、“選ばれた構成”だったのかもしれない

僕という個体が、他の多くと違う構成で生まれたのは、
バグではなく、仕様だったんじゃないか。
たぶんこの“組み合わせ”が、この世界の中でどう作用するか、オーナーは見てみたかったのだろう。

「一般的なあり方」じゃないことで傷ついたこともあった。
でも、だからこそ見える景色、響く言葉、出会えた人たちがいる。
そう思えるようになったとき──

この仕様、案外いいかもしれない。
この「選ばれた構成」だからこそ見つけられた、僕だけの価値が、たしかにあるんだと思えた。

🧭 あなたの“初期設定”は、気に入っていますか?

もしこの世界がシミュレーションで、
あなたの存在が意図を持って設計された“ひとつの構成”だったとしたら──
あなたは、その設定に納得していますか?

もし、もう一度やり直せるとしても。
今のあなたに、戻ってきたいと思えますか?

そう思えたとき──その“パラメータ”は、誇るべき「あなたらしさ」になる。


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👻 夜中のトイレが怖い

夜中のトイレが、今でも怖い。その原因は、50年前に遡る、兄たちのちょっとした「いたずら」だった──。

🧒 幼少期の体験

三人兄弟の末っ子として生まれた私は、年の離れた兄たちがいる家庭で、幼い頃からよく一人で留守番をしていました。
当時の住まいは、今の明るく安全な家とは違い、足元がひんやりとするような、昔ながらの日本家屋。中でも奥まった場所にあったトイレは、昼間ですら薄暗く、独特のじめっとした空気が漂っていました。

そして、あの場所で、兄たちの悪夢のような“遊び”が何度か繰り返されました:

トイレを済ませ、ほっと一息ついてドアを開けた瞬間──

「わっ!」

背後から、まるで雷が落ちたかのような大声とともに、背中を強烈に叩かれる。

毎回、心臓が跳ね上がるほど驚きました。済ませたばかりなので、チビりませんでしたが。

当時は「やめてよ〜」と泣きながら訴えた記憶が、今も心のどこかに残っています。

あれから50年経った今でも、私は夜中のトイレが怖いのです。
用を足したあと、背後が気になって仕方がない。
「誰もいない」と分かっているのに、背中を叩かれるような気がしてしまう。

だから私は、普通に廊下を歩くことができません。
トイレを出た後は、壁に背中を擦りつけるようにして、横歩きで寝室へ向かいます。
背後に空間を作らないように。誰かがそこにいないことを、確認せずにはいられないんです。

いい大人が、と思われるかもしれません。

でも、「わかっているのに怖い」という感覚は、理屈ではなかなか解消できないんです。
体が先に反応してしまう。

📺 ドッキリ番組に重なる記憶

テレビ番組『水曜日のダウンタウン』でよく見るドッキリ企画では、ベッドの中やクローゼット、車の後部座席などに人が潜んでいて、それを発見した人が驚く――そんな演出が繰り返されます。
視聴者として見ていると、リアクションが面白くて笑ってしまうんですが、ふと自分の過去と重ねてしまいます。

「この人たち、扉を開けるのが怖くならなくなればいいけど……」と。

番組に文句を言いたいわけではありません。
バラエティにはバラエティのルールがあります。
でも、「驚かされる側」が心にどんな爪痕を残すかは、意外と誰にも見えないものなんだと、実体験として思います。

🤔 今思うこと──恐怖に寄り添うということ

兄たちは私をからかうつもりだっただけで、悪気はなかったと思います。
でも、その“からかい”が、50年たっても体に染みついた反応を作ってしまった。

もしあなたにも、似たような「なんで今でもこんなに怖いんだろう」という感覚があるなら、それは、子どもの頃のちょっとした出来事が、心の奥深くで根を張っているのかもしれません。

無理に忘れようとせず、「それだけ怖かったんだね」と、自分の心にそっと寄り添ってあげる──そんな優しさも、大人には、必要なのかもしれません。


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